頭の中ではなく、心の中にある言葉

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毎週土曜日の朝は、社員と一緒に論語を学んでいます。
論語を学ぶ理由は、当社は社員一人ひとりの人間的な成長をベースとして、会社を発展させていこうと決めており、論語が最適な教材だと考えているからです。

論語と聞くと難しいイメージを持つかもしれませんが、一章句ずつは短くて簡潔です。教えはシンプルで大変わかりやすいものです。そして、何より現代で生きる中で不足しがちな学びを得ることができます。では、不足しがちな学びとは何か?孔子先生はそれを「仁」や「徳」と表現しています。学校では道徳の授業で取り扱っている領域だと思います。

本日は「仁」について、未熟ながらに私の理解を紹介させて頂きます。
辞書で検索すると、思いやり、いつくしみという意味がでてきます。「仁」は論語の中で一番多く出てくる漢字で、孔子先生が最も大事にされた心だと思います。そして、「仁」の心を大事にしたのは孔子先生だけでなく、日本国も同様でした。その証拠に、仁の心を忘れることがないよう、平安時代から始まった男子皇族の名前に原則として「仁」をつける伝統は、現在まで継承されています。(明仁(あきひと)様、徳仁(なるひと)様 など)

では、なぜに「仁」の心がそこまで大切にされてきたのか。それは、仁という漢字の由来にヒントがありました。「仁」という漢字は、「人」と「二」(ふたつ)の合字なのに、「仁」と書いて「ひと」と読みます。これは、異なる二つのものを一つとして捉えるという意味が込められているからです。例えば、日本国には天皇がいて国民がいる。天皇は自分と国民とを二つの分離したものとは捉えず、自分と国民とは一つであると捉える。これこそが仁の心の由来で、これを汎用性のある言葉に置き換えて、現在では思いやりとしているのではないかと考えました。(間違っているかもしれません)

上記のような学びを踏まえ、私は「仁」を、【私と同じように相手を大切にする心】と定義しています。最近ではこのように言葉を自分の心で定義するような習慣がつきました。

なぜなら、辞書(論語)に書いてある、思いやりやいくつしみといった言葉で仁の大切さを周りの方に伝えても伝わらないこと気がついたからです。本を読んで知っただけの頭の中にある言葉は、軽くて説得力がありません。一方、理解を深め、納得し、心の中に落とし込んだ言葉は自らの血肉となり、重みを帯びて迫力がでるように感じています。 これからも論語を学び、心の中にある言葉を育てていきたいと思います。

大道和哉