新入社員の論語勉強記!第19回 人の差はどこに生まれるのか?

新入社員の論語勉強記!

大道桂三です。
新入社員として良き習慣を身につけるために論語を学んでいます。毎週、1章句ずつご紹介させて頂きます。

論語とは、孔子とお弟子さんとのやりとりをまとめた本で、儒教を代表する経典になります。日本では江戸時代の寺子屋や藩校などで一番盛んに読まれていたといわれており、若い人を育てるときの教科書となっていたそうです。優しい気持ちや慮り、あるいは努力する心、言い訳しない潔さ、人との距離のはかり方など、日本人らしさともいえる考え方のもととなるものがたくさんあります。

未熟極まりない文章ではございますが、最後までお読み頂けましたら幸いです。

■章句
子曰わく、性(せい)、相近(あいちか)きなり。習(ならい)、相遠(あいとお)きなり。

■訳
先生がおっしゃった。人は生まれたときには、ほとんど差がない。
その後の習慣や学習の違いによって差が大きくなる。

■章句を通して、孔子が伝えたかったことは何か

生まれ持った能力(外見、身体的特徴、家庭環境等)には確かに差があるが、それは長い人生においてはそれほど大きな差をもたらすものではない。
しかし、自らの努力により積み上げた人格(心、考え方、習慣)は、確実に大きな差をもたらす。能力ではなく、人格の形成を重視するべきである。

■学んだこと

人との差を生まれ持った能力(外見、身体的特徴、家庭環境等)で評価してしまいがちです。
今回の章句で孔子は生まれ持った能力は長い人生においてはそれほど大きな差はないとおっしゃっています。

差がつくのは「習」の部分。
例えば高校サッカーは18歳時点での差が結果としてあらわれるため、生まれ持った能力(外見、身体的特徴、家庭環境等)による差がでてしまう部分もある。しかし、そこで結果を出した人が、その後長い社会人生活の中で結果を出し続けられるかというと、そうではないのではないかと感じています。

大切なのはサッカーを通して、人格(心、考え方、習慣)を磨くことができたかだと思う。ピッチの上では輝いていたが、ピッチの外では輝きを失ってしまうような人間になってはいけない。サッカーから学ばせて頂いたものを、相手や社会のために生かせる人間を目指すべきだと私は思います。
私も未熟極まりない人間の一人のため、こうして論語を学んでいます。

生まれ持った能力に頼らず、正しい原理原則に基づいた考えを論語で学び、良き習慣を身に付け、日々努力することが人との差になると私は理解しました。